映画の中にはさまざまな人生や日常がある。さまざまな人生や日常の中には、整理収納の考え方が息づいている。
劇場公開される映画を、時折、整理収納目線を交えて紹介するシネマレビュー。
入場口で渡されたチラシには、こう書かれていた。
ご鑑賞いただく
すべてのみなさまに
お伝えしたいこと
おねがい
この映画に登場する子どもたちや職員は、これからもそれぞれの人生を歩んでいきます。
各家庭の詮索や勝手な推測、誹謗中傷を発言することはご遠慮ください。
どうかご協力をお願いいたします。
そして絶対にそういうことにならないで欲しいという送り手たちの思いの強さ、いや、願いの強さを受け取った。
映画『大きな家』を2024年末に観れたことに感謝している。
監督・構成・編集は竹林亮さん、企画・プロデュースは齊藤工さん。
東京のとある児童養護施設を追ったドキュメンタリーだ。
いきなり自分のことを言って恐縮だが、ドキュメンタリーが好きだ。
そして観る度に、聞き手という共通点はあるが、私にはドキュメンタリーの聞き手は務まらないだろうなとすぐに白旗をあげてしまう。
ドキュメンタリー作を手がける方にはたいてい、長考に耐える禅の精神みたいな姿勢を感じるからだ。
そんなわけでただただ傍観者としてスクリーンに向かった。そしてやたら涙してしまった。なぜアンタが泣くのさ、と別の自分がするどくツッコミを入れる中、やたら涙した。
映画に登場する児童養護施設に住む何名かの言葉が、正直でそしてとても乾いていたからだ。もっとウエットでもおかしくないし、渇いていてもおかしくないだろう。
でも子どもらしかったり、若者らしかったりするなかで、乾いている感じがした。
それがいいとか悪いではもちろんない。
でも簡単に共感なんてさせないし、だからなぜアンタが泣くのさ、とツッコミたくなっていたのだ。
12月半ば、うちのすぐ隣の木造アパートが火事になった。
横に長く、20戸入っている古い建物だった。
幸い私の暮らす住宅にはなんの影響もなかったのだが、その日、夜になって帰宅するとすぐ手前に規制線が張られていた。
地元のケーブルテレビだろうか? テープの外からテレビカメラが撮影している先をゆっくり見ると、赤色灯がチカチカし、沈火後の作業(検分)をしているようだった。
テープを避けて自宅に戻った。
昼間は相当な黒煙をあげて懸命の消火活動だったそうだ。
風が強くない日だったことはせめてもの⋯⋯だった。
その住宅には独居の老人が多く住んでいたようだった。
出入口が私の住まい側には面していないので、ご近所づきあいみたいなものはおろか、どんな方が暮らしていたかは、網戸越しにチラと見えたことがあったかも、程度だ。
でも朝からよくお経を唱える部屋があるのは耳が知っていた。
あの日からその建物からは灯りが消えた。昼間、明るい時間には焦げた柱が露出し、屋根の瓦の残っている一部が危なく傾いている。
そして近くを通ると焦げた臭いがする。
ここに暮らしていた人たちはどこにいるのだろう? どうやって年を越すのだろう。
そんなことを毎日少し考える。
考えたって仕方がない。
でも関係のない他人でも、今、どうしているだろう? と思うことをやめないでいたい。
映画『大きな家』を観て、やはりそう思った。
映画の中に「整理」という言葉が具体的に出てきた。
それはこの児童養護施設で行われる、自分の生い立ちに関する事実を知る機会だという。
「整理」は捨てることではなく、わけること、区別することだと、整理収納アドバイザーは学ぶ。
それは大切にするものを選びとること、大切にしたいことを決めていく作業だ。
それが、自立をうながす上で必要不可欠であるということを、改めて教えられた。
子どもも大人も関係ない、タイミングもそれぞれ異なるだろう。
でもそうしていくことが自分のためになる。いつか。
暮らしの中の具体的な整理収納も出てきた。
人別収納、ラベリング、グルーピング。
どれも年齢や状況に合わせて無理なくされているように見えた。
実は出来ない人も多いことを、きちんと身に着けているんだなと、嬉しくなったりもした。
家族でもないし、知り合いでもない、ただ映画を観た人……だけれど。
映画『大きな家』には、そうやって自分と人との関わり方を振り返り、整理して、私はこうしたいと自覚できる力の種が植えられている。そう思った。
映画の中のあの人たちは、今、どう暮らしているかな?
隣の木造アパートに暮らしていた人たちは、どこでどんな年越しをするのかな?
私は、それをどこかで気にする、気にせずにはいられない人であることを自覚した。
自覚の先には、何をするかというステップが続く。
『大きな家』のパンフレットを購入し、この映画を観たことをこんな風に書いて、人に伝える。
まずはたったこのくらいのこと。
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