誰にでも忘れられない味がある。ふとした瞬間に思い出したり、その味と共に記憶がするするとよみがえったり。あなたのunforgettableな味から記憶を整理します。題して私のアンフォゲ飯。
今回アンフォゲ飯を語っていただいたのは、特定非営利活動法人ハウスキーピング協会 理事の吉村知恵さん。亡きお母様の忘れない、忘れられない味についてお話いただきました。
-- 吉村さんの忘れられない味はなんですか?
吉村 記憶に残る、私にとっての忘れられない味は一択。6年前に亡くなった母の手料理です。母はとても料理上手でした。幼い頃から私が食べたいと思った料理は母がすべて手作りしてくれていました。その料理がどれも美味しくて、いまも私が外食にあまりこだわらないのはそのせいかもしれません。
-- 吉村さんのお母様、なんでも出来るスーパーウーマンでいらっしゃったんですよね。
吉村 そうですね。料理はもちろん、着付け、和裁、手芸、踊りと趣味の域を超えていたと思います。気風のいい人でもありました。それはきっと母の母、私にとっての祖母の影響だと思います。祖母は東京の下町で長年暮らし、小料理屋を営んでいました。私が生まれる前のことなので、お店の雰囲気は写真で見たことしかありません。通り沿いの店舗の裏手に住居があったので、祖母の家に遊びに行くと小料理屋のカウンターの名残りがあったことを記憶しています。祖母の名前「きく子」からだと思いますが、「菊や」という名の小料理屋でした。祖母は夫を戦争で亡くし、女手一つで3人の子を育てるためにお店をかまえたと聞きました。祖母はお店だけでなく小唄や踊り、三味線も教えている多才で、料理上手だったそうです。母は長女でしたから、歳の離れた弟の世話は母の役目でした。
-- お祖母様がスーパーウーマンで、お母様はそのDNAを引き継いでいらしたんですね。
吉村 小さい頃からお店の手伝いもしていて、妹や弟の面倒もよく見ていたので、母が手早く美味しく料理を作れるようになったのは必然だったのだと思います。
そして私の父は絵に描いたような昭和の男。台所に立つことは一切なく、家では右のモノを左に動かすこともしないような人でした。今の時代じゃ考えられないですけどね。
父は単身赴任で家を空ける時も多く、単身赴任が終わり家からの通勤になってから母は父のためにつまみを作り、晩酌にずっと付き合っていました。なにせ当時私も弟も思春期、食事が終われば子どもたちは食卓を離れますから、父と会話した記憶も少なめです。その父も私が20歳の頃に亡くなりました。母も若くして夫に先立たれ、以来、女手一つで私たちを育ててくれたんです。
私たち姉弟が部活やアルバイトで帰宅時間がバラバラになっても、母はいつも私たちの食事の世話をしてくれていましたね。
-- お母様の日常は、食卓と共に……という感じだったのですね。
吉村 思い返すと家族皆で外食した経験がない。父は外食したがらない人だったし、私たちも母が作る料理が美味しいから母から「たまには外食する?」と言われても私も弟も「いや、家がいい!」と言ってましたから。今、思えば母にお休みをあげるためにも「外食したい!」とたまには言えば良かったなと思います。
-- それほど、お母様のお料理が美味しかったんですね。
吉村 おやつもすべて手作りでした。小さい頃、お友だちの家で食べたババロアが美味しかったと言えば、次の日には作ってくれましたし、アイスクリームも専用のディッシャーでコーンに乗せてお店のアイスみたいにおやつで食べさせてくれました。魚屋さんで買った魚を捌いてお寿司も作ったし、グラタンもホワイトソースから手作りでしたしね。和洋問わず、なんでも作ってくれました。今みたいにレシピを簡単に検索できる時代ではないけれど、料理の基礎は祖母から学んでいて、確かな舌を持っていたので、そこから先は創意工夫で手早く作ってくれました。
母は本当に料理が好きだったのだと思います。例えば、もやもやして眠れない夜、母は台所に立つと言ってました。料理に一点集中して、たくさん作るともやもやが晴れるんだと話してくれたことがありました。信じられない! と思っちゃいましたが、私にとっての片付けと同じだったんだと思います(笑)。
-- お料理をたくさん作るということは、食べてもらうのもお好きだったということでしょうか。
吉村 子どもたちが独立して一人暮らしになってからも、家には大きな冷蔵庫が2台ありました! たくさん作って、私や弟の家庭用に持たせてくれることがしょっちゅうでしたし、友人も多くて、母の家に行けば、お友だちやご近所さん、誰かしら実家にいる(笑)。そしてやっぱり母はおしゃべりしながら料理をふるまっていました。
-- お母様が嬉々として料理を作り、食べてもらうのをニコニコ見守っている感じを想像しちゃいます。皆さん、お母様のファンになっちゃいますね。
吉村 母は着付け教室もしていて、新人の美容師さんに着付けを教えていたりもしました。なにを思ったのか70代になってから、空き時間に大手ハンバーガーチェーン(マクドナルド)のキッチンで働き始めたんです。多様な年代の人が働く現在のマクドナルドの先駆けだったらしく、長年勤めて表彰されたりもしたんですよ。自分が知らない世界にチャレンジする好奇心も持っていた人なんです。当然、若いパート・アルバイト仲間が出来るわけです。交友範囲、年齢層がとても広かったですね。母の名は民江なので、お民さん、お民さんと呼ばれ慕ってくれる若者がたくさんいて、長く交流が続いていました。
-- 素晴らしいですね。聞いているだけで誇らしい気持ちになっちゃいます。
吉村 ある年の母の誕生日のことです。花束を持って母の家に行ったら、玄関にたくさんの数の靴が並んでいて、中からガヤガヤと声が聞こえました。「お民さん、お誕生日おめでとう!」と若者たちが誕生日会を開いてくれていたんです。子や孫のような人たちが母を慕ってくれていました。母の葬儀の時には娘の私が本当に驚くほど予想をはるかに超える人数の方々が弔問に来てくださったんです。
「人間お腹が空いていると余計なこと考えるから、とにかく食べなさい」悩んでいる時、元気がない時に、母が振る舞った料理に救われたと話してくれる方がたくさんいて、ああ、本当に母にとって料理は欠かせないもので、それが周りの方にも伝わっていたんだなと、娘としてとても嬉しかったですね。
-- たくさんの方が弔問されたお話、とても印象に残っています。お民さんのお話が素敵すぎて、ちょっと忘れかけていましたが(笑)、お料理上手のお民さんのレパートリーの中から、吉村さんにとってのアンフォゲ飯は?
吉村 おいなりさんです。私が小さい頃から食べていた母のおいなりさんは、ほんのり酢飯に黒ゴマと紅ショウガが混ぜ込んで油揚げに詰めてあるおいなりさんです。長年そのおいなりさんを食べていたので、大人になって酢飯だけとか、別の具材が混ざったおいなりさんがあるのを知った時はとても驚きました。
-- 黒ゴマと紅ショウガというのは珍しいですね。白ゴマにショウガ(ガリ)の組み合わせは、なんとなくイメージにありますが。
吉村 そうみたいですね。でも私にとってのおいなりさんは黒ゴマと紅ショウガのあの母のおいなりさんなんです。運動会や誕生会など家族が集まる時には、いつも食卓に並びました。大皿においなりさんがピラミッドにように盛り付けられて、もうお腹いっぱいで何も入らないよ……なんて皆が言ってるのに、そのおいなりさんの山はあっという間になくなっちゃう。皆、大好きな味でした。
-- おいなりさんの味、気になります。
吉村 普段は油揚げから味付けして作っていましたが、とにかくたくさん作るので、時間が無いときは市販の味付きの油揚げを買ってくることもあったようです。市販のものは味が濃く主張しすぎるので、母はそれを一旦味を抜いてから味付けし直していました。酢飯の加減も絶妙で、そこに刻んだ紅ショウガと炒った黒ゴマを混ぜ込んで作っていました。酢飯を詰めた母のおいなりさんはぷっくりとした俵型。お米は一升くらい炊いてとにかく一度にたくさん作っていました。
集まりの時に「何が食べたい?」と聞かれると、私が必ず「おいなりさん」と答え、リクエスト。母は「いつも同じのでいいの?」と言ってましたが、「これがいいのよ!」 と皆、思ってました。母の味を食べられなくなってから、何度かあのおいなりさんに挑戦しています。あの味を知る娘や姪っ子たちもそれぞれ作ってみていて、見た目は一緒なんですが、あの味は今のところ再現できていません。ああ、やっぱりあの味をもう食べることは出来ないんだなあと思うとちょっぴりせつなくなってしまいますね。
いまも母の誕生月など、親族は事あるごとに集まっています。その名は「お民会」。これからも母の口癖「皆、仲良く、元気で!」母の味と共にずっと忘れないでいたいなと思っています。
-- お民さんのおいなりさんの味を知る人、大集合したらとてもにぎやかになりそう! お母様のお人柄と楽しい食の記憶をお裾分けいただきありがとうございました!!
イラスト/Miho Nagai

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