日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
期末テストの勉強期間中だった姪らとのランチで、勉強法の話になった。
勉強法だなんていうと、なんとか式みたいな立派なものを想像するかもしれないが、
もっとアナログな話しだ。
音楽を聴きながら勉強しているという姪に対して、
「あれは“ながら”なんてものじゃない。完全に聞きながらノッちゃってるし、歌ってるし」と彼女の家族は言う。
勉強は歌いながら頑張っていると間接的に聞いていたから、
節をつけて暗記でもしているのか? はたまた私が中学生の頃していた方法を実は姪もとっている? などと思い聞いてみたところ上記の答えだった。
私が「ながら」が苦手なのは昔からだった。
日本語の歌詞のある曲は、つい歌いたくなっちゃうし、歌詞を聞きとろうとしてしまう。
だから勉強時間は、無音。
50分集中して、10分休むようにしていた。
いたって普通のやり方か。
でもその10分の休みには、大好きなアーティストの曲を全力でかけて熱唱していた。
Albumが出ればとにかく繰り返し繰り返し聴いていたから、
イントロから間奏からフェイク部分や♪Nananananaみたいなところも完全に陶酔しながら歌っていた。
どこぞの風呂場から聞こえる大きな歌声と違わないか?
いや、音は外していなかった、はず。
娘が勉強しているからといって、夜食を持ってきてくれるような家庭ではなかった。
でも、この50分の後の全力10分熱唱が2階から聞こえてくると、
「つまり勉強してるってことね」というように理解していたそうだ。
10分間の熱唱は、いつしか「お祈り」と呼ばれ、
「またお祈りが始まった」とか「お祈りしてるからまあ、なんとか勉強してるんでしょ」
みたいな扱いだったらしい。
私にとってのカリスマアーティストだから、「お祈り」はある意味正しかったかもしれない。
ある日の夜、事件は起こった。
その日も私は50分勉強した後、10分熱唱を繰り返していた。
……と、階下からめずらしく母親があがってきて、私の部屋の戸をあけて言った。
「〇〇くん来てるのよ」
「えーーーーーーっ!」
〇〇くんは、5つ歳の離れた次兄の同級生。
なんと、隣の部屋に遊びに? 来ていたらしい。
私の本意気の歌、フェイク、なんならアドリブをまさか兄の友人に聞かれようとは!
それから後はひたすらその兄の友人が帰るまで、顔を合わせないよう、息を殺して自室にこもった。
実のところ、自室と言ったって、部屋は階段を隔てたすぐ隣。
防音装置はおろか、入口は障子の部屋だった。
兄の友人が帰る時、「お邪魔しましたー」の声がいつもより大きいような気がしたのは、
思春期の自意識過剰現象だったろうか。
この話を夫にしたところ、「50分-10分は方式は、今もやればいいんじゃない?」と言われた。しょっちゅう「原稿が書けない」だの「ヤル気が出ない」とか「集中できない」と愚痴をこぼすのを見かねての助言だろうか。
「でも、ここじゃあ本意気で熱唱なんて出来ないじゃない。集合住宅なんだから、苦情来ちゃうよ」
ムキになって答える私に、
「いや、熱唱じゃなくて、50分仕事して10分休むというスケジュール管理のことだよ」と夫。
ごもっとも。ああごもっとも、ごもっとも。
でも、あの10分の「お祈り」が何より50分の原動力だったんだよなぁ。