日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
私の母が出演した一世一代の晴れ舞台、浅草公会堂で開催された舞踊の会を、一日付き人として見た舞台の表と裏の話のきまぐれ短期連載をお届け中。
当日、行きの電車で母が踊りをはじめたきっかけを聞くことにした。
今年、母は踊りをはじめておよそ50年になるという。
誰かと同じ歳だ。
赤ん坊の私を集会所の床に適当に転がして、踊りのお稽古をつけてもらっていたという。
でも本当の初めはもう少しさかのぼる。
末っ子だった母は、自称金魚のフン。姉の後ろをくっついて歩く子どもだったらしい。
だからというわけではないが、盆踊りで誰かの後ろにくっついて踊るのが結構好きだったという。
母がまだ東京は品川エリアに住んでいた頃、大井大森辺りは東京の代表的な花街の一つだったそうだ。
踊りに興味があった母は、芸者さんがお稽古をする場で一緒に踊りを習うことになった。
習い事は、花嫁修業の一つだったのかもしれない。
稽古場はお風呂場みたいな板張りの場所だった。
それは、検番と呼ばれる、つまり芸者さんを取り次ぐ事務所みたいな場所だったらしい。
私の母は芸者さんにスカウトされるようなべっぴんの部類ではなかったので
むしろ安心して!? 純粋に習い事として出来たのではないかと思う。
これは娘だから言っても、思ってもいいこととしよう。
そんなこんなで、踊るのは楽しいと思っていた記憶を胸に、母はその後結婚し、
千葉へ移り住む。
次に踊りのお稽古を再開したきっかけは、息子が通う幼稚園だった。
その副園長(園長先生の奥様)が踊りが好きで、習っていたとかで、その先生がわが家の地域にも教えに来てくれることになったらしい。
副園長は、私が幼稚園に通っている時代の園長先生のお母さんにあたる人だ。
そういえば、幼稚園では、夏まつりで盆踊りが盛んだったなぁ。
園長先生が太鼓を叩いて、母はそこで先生役みたいに浴衣を着て踊っていたっけ。
自称金魚のフンだった母は、盆踊りを踊れる大人になって、
後ろにたくさんの金魚のフン、失敬、たくさんの人を従えて踊った。
母の踊りのルーツとともに、私の記憶もなんだかつるつるとつながってきた。
集会所の床に転がされていた私は、そのまま、ハイハイとかお座りとかの時期もおそらく連れて行かれ、そこに集う踊りの仲間のおばちゃまたちとも当たり前に馴染んでいった。
その中の一人のおばさんが作って持ってきてくれる切り昆布が入った煮豆が大好物で、
冗談じゃなくおふくろの味は? と聞かれたら、それを真っ先に思い出す子どもになった。
おっと話が煮物に逸れてしまったが、そんなわけで、途中中断はあるものの、
母が続けていた踊りは、いわゆる〇〇流とかいう由緒正しき日本舞踊というのではなく、
歌謡曲や演歌に合わせて踊るものが中心だった。
先生がお亡くなりになったり、体調を崩してやめられたり、諸事情もあって師匠が変わることは何度かありながらも、なんだかんだと続けていたということは、
やはり母は踊りが好きだったのだろう。
なぜ? と聞いても、「まあ、好きだったんでしょうね」ということだ。
そして現在の師匠と出会い、準名取から名取へ。
晴れの舞台へ出る機会がいよいよやってきたのである。
(つづく)