理由あって週イチ義母宅に通っている。
これは、主にその週イチに起こる、今や時空を自由に行き来する義母とその家族の、
ちょっとしたホントの話だ。
それは2年前の夏の終わりのことだった。
砂糖と醤油の甘辛おかずが好物の義母の夕飯を作るためにいつもの通り米を炊こうとした。
炊飯器を開けると、釜がない。
「釜がない、釜がない」と呪いのようにつぶやく私に、
義母は「何がない?」とたずねる。
「釜がないのよ、ご飯を炊こうと思ったら釜だけ見えないの」
「知らないよ。私は見ないよ」と義母。
3合炊きの釜だけれど、それなりの大きさはある。
ちょろっとどこか隙間に隠れてしまうサイズではないのに、さあ困った。
でも、あまり「ない」を連発すると、不安感ばかりが募ってしまうので、
とりあえずその場はやり過ごした。
ヘルパーさんへのノートにも炊飯器の釜が見当たらないので、見つけたらよろしくお願いしますと書き残した。
帰宅後、夫に報連相をして、次に行った時に探してみてくれることに。
こういうのはとにかく冷静にいくべしなのだ。
幼い頃、なにか探し物をしていると兄に「七度探して人を疑え」と言われたことがあり、
それからずっとその故事は私の中にある。
いや、もちろん七度探さず疑うことは今でもあるが。
ヘルパーさんからは「見当たりません」のレスが続いたが、
夫から「見つけた!」の報告が来た。実家なのだから、私よりアドバンテージは当然ある。
問題はどこで見つけたか、だ。
義母宅の内釜は、庭で見つかった。
それはそれは衝撃で、わけがわからず、でも以来、何かを探す時は庭の裏手も捜索範囲に
加わったのである。
今でもよく夫婦で話題にあがる。
なぜ庭なのだろうねと。
実は庭からは、耐熱ボウルや洗面器も見つかったことがある。
どちらもよく消毒して今も使っている。
ふと考えた。
内釜、耐熱ボウル、洗面器、何やら共通点がある。
桶は裏庭、なのではないか。
義母が幼い頃、父親は農業を営んでいたという。
畑でスイカの収穫を手伝っては、お駄賃にスイカを丸ごと食べていたと嬉しそうに話してくれたことが何度もある。
庭で足を洗ったことだろう、桶とか金ダライとかもあったことだろう。
だから、桶は裏庭なのではないか。
これは全くもって私の想像だ。
でも、そう考えると少し納得がいって、ちょっとホッとする。
まだ幼いうちに父を胃がんで亡くしたという義母から、
聞いた父親のエピソードはほんの数種類なのだけれど、
スイカへの執着にも似た愛は、きっと今に通じているはず。
その後、内釜は変わらず義母の大好きな白飯を炊いてくれている。
がんた飯になったり、おかゆのようにじゃばじゃばになったり、
内釜を直接火にかけてしまったこともある。これは危ない。
あれから2年、最近は炊飯器の場所や炊飯ボタンがわからないこともある。
でも、白飯好きの義母にはなるべくお米を研いでもらい、ボタンを押してもらう。
たまに、天才的に水の量がぴったりなことがあって、
それを見ると、習慣ってすごいよなって思えてホッとしたりハッとしたりする。
でもここだけの話、今も週イチ義母宅に行き、電気釜の蓋を開ける時は、
「内釜あるよね?」と少しだけ緊張している。
そうか、それが私の習慣になっているのかも。