日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
駅のコンコース、地元民にとってはお馴染みの銅像の後ろで、母を待っていた。
バスでそこまで出てくるので、早めに着くかもしれないと思い、めずらしく余裕を持ってその場に着いた。
桜に誘われてだろうか、春休みもあるからか、人出が多かった。
待ち合わせをしている人同士が、「あ!」「こっち!!」みたいな感じで次々とペアになっていく感じは、トランプゲームの神経衰弱で、続けざまにペアをめくっていくみたいな光景だった。
あの人とあの人、似たもの同士な感じ。
へぇー、あの人とこの人の組み合わせなんだ、意外だなぁ。なんて、ぜーんぶ赤の他人だから勝手にその神経衰弱を見ていた。
ふと目線の先に、待ち合わせをしていた二人の女性が見えた。
年齢は40代とか50代だろうか。もう自分の年齢がどう見えているかわからない感じになってしまったので、他人を見てもいくつくらいか……がわからなくなってきた。
一人の方がお相手に近づくと、持っていた花束を渡した。
絢爛豪華なものではなく、かといってキッチンやリビングにちょこっと飾るような小さなものでもなく、それは何かをお祝いするような花束に見えた。
やさしい春色だったと思う。
驚いてその花束を受け取ったお相手、二人はすぐにどこかに移動するのではなく、その場でしばし言葉を交わしていたようだ。
少しするとどちらかがハンカチを手に目のあたりをぬぐった。
するともう一人も同じように目のあたりをぬぐい、しばし二人で涙していた。
そこで私の一人妄想劇場の開演ベルが鳴った。
「退院おめでとう。本当に大変だったよね。でも本当に良かった」
「ありがとう。なんかね、やだー、顔みたらホッとしちゃって……」
だったりするだろうか。
あまり派手に着飾っている感じでもなかったから、この後、どこかに食事に行くのだとしても、そんな何気ないことこそが幸せだと二人で安堵の涙なのではないか。
もちろん、答えはわからない。
声が聞こえるほどの近い距離でもなかったのだ。
そのほかにはどんなパターンがあるかな……と考えていたら、母が待ち合わせの時間通りにやってきた。
少し前に目の前で繰り広げられていた光景をまるっと話してみたら、
母と私の二人妄想劇場の開演ベルが再び鳴った。
「試験合格おめでとう!本当によく頑張ったね。えらいよ。私なら絶対途中であきらめていたと思う」
「必死だったよー。あんなに勉強したのはいつぶりだろうって感じ。でもホッとした。花束ありがとう。びっくりしちゃって本当に嬉しい」
これは母の見立てだった。もちろん、こんな台詞を母が口にしたわけではない。
でも母は、何か合格したんじゃない? と言ったのだ。
私は想像していなかったけれど、そう言われたらなんだかその方が当たっているのではないかなと思ったりした。
もちろん、答えはわかるはずもない。
もう目の前にそのお二人はいないのだから。
ふたりで勝手なこと言うよねー、と笑って、話題は次のことに移ったが、
この妄想にもそれぞれの経験が紐づいているなということに気づいた。
母は、60歳でケアマネージャーの資格を取得したという経験を持つ。
それなりの年齢の女性が、花束を友人らしき人からもらっていたと聞いて、合格を思いついたのは、自分にもそういう経験があったからなのかもしれない。
あぁ、あの時、母におめでとうは言ったけれど、花束を渡したりしなかったなぁと。
数十年前のことを少し反省した。
一方、私といえば、闘病の経験はないけれど、それ以上に試験に果敢にチャレンジなんてことをしていない呑気な日々だから、そちらに思いは至らなかった。
さあ、妄想劇場の開演です。
あなたなら、その花束は何のお祝いだったと思いますか?
※写真はサクラサク……ではなく、わが家の庭のユスラウメの花