日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
散る桜を横目に見ながら車を走らせた日、さくら便りとは違う花の便りが友人から届いた。
記憶と記録を辿ると、それは6~7年前のことだ。
その友人が勤めていた事務所から胡蝶蘭の鉢を引き取ったというFacebookでの書き込みを見て、そして、それをちゃんと咲かせたというご報告を見て、
なんだかやけに嬉しくなって、すごいすごい!と喜んだのだった。
だって、胡蝶蘭って難しいよね。
しかも、かなりシュンッとなった状態だったらしいそれを見事咲かせるなんて!
で、彼女に胡蝶蘭子と名付けて、ブラボーの気持ちを送っていた。
胡蝶蘭の花言葉を調べて、それが「幸福が飛んでくる」というのだと知って、自慢げに伝えたりもしていた。
以来、友人は彼女の元で胡蝶蘭が咲く度に、報告をくれる。花が咲いた写真とともに。
それは私にとっては、まさに幸福のおすそわけ。
胡蝶蘭は、自分が結婚した時に、小学校時代の恩師から贈っていただいたことがあった。
私はそれを咲かせ続けることが出来なかったので、咲いたよ! 報告は、余計に嬉しかったのかもしれない。
もう一つ胡蝶蘭で思い出すことと言えば、昔、フリーマガジンの編集をしていた頃のこと。
発行元であるクライアントの本社に打ち合わせやプレゼンで度々訪れていたのだが、
その会社に何か祝い事があるとき、祝い花は胡蝶蘭で統一されていた。
いかにもな感じでズラーッと本社のロビーに並んでいる胡蝶蘭を見ては、
これ、終わってしまった鉢はどうなるのだろう? 引き取ってもらうルートがあるのかな?
と疑問に思っていた。
そんな記憶もあったから、大切に育てて、再び花を咲かせた友人のグリーンハンドぶりに嬉しくなったのかもしれない。
時は過ぎ、彼女は結婚して、母にもなった。
コロナ禍もあり、かなりの期間直接会えてはいない。
でも3月末に、「今年は咲きそうです」という経過報告が届いた。
聞けば、昨年はご主人の冷房ガンガンのお部屋に胡蝶蘭は置かれていたために冬眠していたようだけれど、
今年はベビーと共に気温&湿度がたっぷりあるお部屋にいたことで、しっかり咲きそうとのこと。
楽しみに開花宣言を待っていた。
そして、咲いたとの報せが届いたのだ。
写真を見れば、「ああ、胡蝶蘭が笑っている」「まるで羽根を広げているみたい」。
しっかりたっぷり幸福を感じて感動してしまった。
その感動の理由は、やっぱりなんといっても、その報告をもらえたこと、なのだと思う。
ママとして忙しい日々を送る日々のはず。
それでも幸福のお裾分けをしてくれるやさしさよ。
よく、付き合う人は多くなくていい。
合わないなら無理に合わせる必要はないし、つらいなら距離を取ればいい。
そんな処世術というか、生き方アドバイスを耳にすることがある。
その通りだ。まったくもってその通りだと思う。
でも私はこうも思う。
まるごと全部合うことなんてない。でも多面体のどこかの面がぴったり合ったり、
形が似ていたり、反発する感じがむしろ心地よかったりなど、そういうことがあると。
胡蝶蘭の開花報告をくれる友人(命名:胡蝶蘭子)は、出会ってからの年数も私の人生の中で言ったらさほどではなく、なんなら直接会った回数は、両手で足りるくらいだろう。
けれど、たぶん彼女の多面体のどこかと、私の多面体のどこかは、いい感じに合う気がしている。
胡蝶蘭子からのラブレターで少し浮足立ちすぎかもしれないけれど。
この写真を見て、ここまで読んでくださった方にも「幸福が飛んできますように!」