日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッ
セイ、つまりクリッセイ。
このレビューの最後に、
そろそろ迎え盆だ。
蛍ではなく、蛙になって出てきてくれることの多い
会うことはなかった義理の兄に今年も会えたらいいなと思いながら、その日を迎えることにしよう。
と書いた。
そして、その墓に義母と夫と出かけた。
そこには1歳と少しで亡くなった義母にとっての長男が眠っている。
いつも墓参に行くと、緑の小さなアマガエルが花の周りにいて、
迎え盆で家に戻ると同じくらいの大きさのアマガエルが門扉にいたなんてことがあったので、いつしかお義兄さんの化身は蛙なのだということになっている。
毎回のように同じようなアマガエルを見つけるものだから、
もうそれに親しみがわき、「今日も蛙、いるかな?」と楽しみにもなっていた。
コロナ禍だったり、猛暑だったり、仕事だったり、いろいろ事情があって
盆にそろって出かけたのは久しぶりだった。
寺に着くと駐車場もすっかりきれいに舗装され、歩きやすくなっていた。
高齢化が進み、そういうリクエストも多かったのだろう。
きれいになった通路を歩きながら、いつもの墓石に向かった。
すると、やっぱりいたのだ。蛙が。
「わ、やっぱりいたよ!」と少し声が大きくなる。
しかし、これまでと違っていたことがある。
その蛙は緑のかわいいアマガエルではなく、まるで墓石と一体化したような墓石柄&茶がかった灰色。
お義兄さんが生きていれば、今年64歳になっていたそうで、
「まあそりゃあ歳も取るよね」などと言って笑って、墓参を済ませた。
全く詳しくはないのだが、蛙は環境に合わせて体色を変化させる生き物なのだとある。
ということは、墓石に同化していたのは、あの蛙があの墓石の主と化していたことに
証拠のようにも思える。
動きも少し緩慢になっていた……などというのはこちらの思い込みだろう。
盆と蛙はセット。
「盆にはそっちに帰るからね」なんてシャレている。
だからやっぱりあのお芝居を観て良かったな、なんて逆算したような気持ちになって
静かでこじんまりとした盆の行事を終えた。