日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
私の母が出演した一世一代の晴れ舞台、浅草公会堂で開催された舞踊の会。
一日付き人として見た舞台の表と裏の話のきまぐれ短期連載をお届け中。
出番に向けて支度が始まる。
プロフェッショナルな人たちの仕事振りを間近に見られる機会がやってきた。
前回予告したが、その前にちょっと横道に逸れるが外せないエピソードを話さないわけにはいかない。
付き人役の私は、この日の朝、8時前には家を出て、母と共に現地入りしていた。
そして開演の11時には、父、長兄、次兄とその子供たちが会場に来る予定になっていた。
父は長兄と途中駅で待ち合わせをしているとのことだった。
その父は朝、私と母を最寄り駅まで車で送り、その後、再び出かけるという、意外と忙しいスケジュールだった。
開演するとまもなく、今回の会で名取披露となる面々のお披露目、名披露目口上があり、
母はここで壇上に上がる予定だ。
歌舞伎の口上のように、当人とその師匠らがずらり並んで、家元が一人ずつ紹介するのである。
この時間は私も客席で観ることにした。
客席には、長兄、次兄、甥と姪が勢ぞろい。
高校の文化祭で会場には来られないと言っていた姪の一人だったが、台風の影響で延期になったそうで、彼女も会場に来てくれた。
なんて幸せなことだろう、母、良かったね……などとしみじみしながら、
甥や姪に「ありがとね、ありがとね」と感謝しまくる叔母の私。
……と、次の瞬間、父がいないことに気づく。
「あれ?お父さんは?」
長兄は眉間にシワを寄せて「待ち合わせに失敗した」という。
「は?どういうこと?」
聞けば、待ち合わせの時間になっても父は現れず、30分近く待ったが現れなかったので、
仕方なく現地に来たのだという。
父は体の大きい人なので、会場にいればすぐ目につくはずだ。
いない。
父は携帯電話を持っていない。チケットは持っているし、プログラムもあるはずだから
一人で来られないということはないだろう。
オープニングの家元直門 師範の踊りが終わり、次は名披露目口上である。
父がいない。
私は姪たちに、「おじいちゃまいないから、代わりによく見てあげてね」なんて言うしかなかった。
長兄はもう、この後、墨田川に身投げするんじゃないかというほど背中を丸めて落ち込んでいる。
きっと、待ち合わせは散々確認していたけれど、ああしておけばよかった、こう言っておけばよかったかもと思っていたに違いない。
子どもが思う以上に、親は歳をとっている。
事故なんかじゃなければいいけれど……そんなことも思っただろう。
あーあ、と思いながら、それでも幕間のまだ暗くなる前の客席を振り返ってキョロキョロしてみた。
万事休す。
……と、次の瞬間。
父が客席に現れた。幕があがる2分前くらいのことだ。
大きく手を振ると、こちらに気づいて私たちの客席に歩みよる父。
なに、このラスボス登場みたいな感じは!
理由は単純だった。
長兄との待ち合わせ時間を1時間勘違いしていたのだという。
なんと人騒がせなことだろう。
しかし、わが兄弟は誰もさほどこれに驚かない。
両親は昔から待ち合わせが下手な夫婦だった。
下手というか、雑なのである。
ホームを間違えていたり、前と後ろを勘違いしていたり、駅や路線を思い違いしていたり。
大抵「ああ、そんなのはわかってるよ」「大丈夫、何度も行ってるんだから」とか
反省しないものだから、それで何十年もやってきた。
今回も父は悪びれもせず、「1時間間違えちゃってさ」と頭を搔いていた。
そして結果オーライ。名披露目口上が始まった。
とはいっても、母は深々とお辞儀をしていて、その名が呼ばれた時だけゆっくりと頭を上げる。それだけだから、父がいようがいまいがわからなかったというのがほんとのところだ。
まあ、本当にいなかったらひと悶着ありそうだけれど。
口上が終わり、一度幕が下りる。
ふたたび開いて、名取たちは、自分の名入りの手ぬぐいを配る「お播き」も行われた。
さあ、今度こそ、出番に向けて支度が始まる。
プロフェッショナルな人たちの仕事振りを間近に見られる機会がやってくる。
(つづく)