日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
人生初の「奈良」をエンタラクティブにお届けする短期集中連載。やはりまずはここ、東大寺にやってきた。
東大寺大仏殿。国宝 盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は、もったいぶることなくすぐ目の前に現れた。
写真もOKだという。
なんと広い心であることか。
そこにいる人たちのほとんどが同じ首の角度で盧舎那大仏を見上げる。
マスクをしているからわからないが、なんとなく口をあんぐり開けてしまう角度だ。
ありがたくて手を合わせてしまうかと思いきや、そういう緊張感というか
張り詰めた感じがなかった。
ただそこにいる。大仏も、私も……みたいな感じだろうか。
外国人むけの案内人が英語で説明していたり、観光タクシーのドライバーさんのような人がお客さんに案内している。
バスガイドさんが案内している列に紛れ、小学生と一緒に解説を聞いてみたりもした。
大仏建立に関わったのは約260万人。
先祖をたどっていけば、誰かしらその260万人の中の人がいるのではないかという。
そう考えるとこれは、誰かの富や名誉の証ではなく大衆のための仏なのだろうか。
あまりにもすっとそこにあり、門戸が開かれていたので、
そのおおらかさに心がゆるゆるとする。
そしてやはり盧舎那大仏の手に注目せずにはいられなかった。
左手は宇宙の智慧を、右手に慈悲を表しているという。
前日から、何度も「対」の話をしていた。
ネガとポジがある。どちらか一方ではない、対なのだと。
それはバランスのよい一対ではなく、大きさもバランスもその時、その人によって違う「対」なのだと、そんなことばかり時に真面目に、時に毒を盛り込みながら話していたのだ。
そこへきて盧舎那大仏の手もやはり対なのだと知る。
右手と左手、どちらに気持ちをが傾くかなと、自問自答してみた。
この日、この時間は右手の方に少し気持ちが傾いた。見る時々によって違いそうだ。
対なのだということに、妙な安心感を得て、大仏殿(金堂)を跡にした。
実はここで、もう一つの仏像にロックオンされたのだが、それはまた次の話で。
(つづく)