日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。
あけましておめでとうございます。2025年がやってきました。
本年も「エンタラクティブライフ」をどうぞよろしくお願いいたします。
一人でゆっくり過ごす元日。
細かく予定は決めないで、でも18時にはラジオを聴こうと決めていた。
Reading Tanikawa
谷川俊太郎さんの詩を、J-WAVEナビゲーター9名が読む60分。
昨年11月に亡くなられた詩人の谷川俊太郎さん。
そのニュースが流れると、SNSには多くの著名人からの追悼の言葉があふれ、思いや思い出や、「谷川作品と私」の文章があふれた。
それで改めて谷川俊太郎さんの詩を目にしたし、いったいどれくらいの人が谷川さんの詩に触れてきたのだろうとその数を想像した。
相変わらず凡人あまのじゃくな私は、そういうタイミングで何かを発することが出来なかった。「谷川俊太郎さんとわたし」を素直に書いたりできなかった。
年が明けて、この番組で耳から谷川作品を静かに聞いて、谷川俊太郎さんご自身の詩の朗読を聞けた日がいつだったか、書き残していたレビューを検索した。
2013年11月のことだった。
それを作った人が読んでくれること
谷川俊太郎【朗読】+谷川賢作【ピアノ】
小室等【ボーカル・ギター】+こむろ ゆい【ボーカル・ウクレレ】
W親子トーク&ライブ~ことばとうた~
(拝啓、ステージの神様。より)
そうだった、とても贅沢な時間だった。
そして、こんな記憶もよみがえってきた。
ご挨拶させていただいたロビーで、緊張しながら目の前の谷川俊太郎さんにお声をかけた時の内容が、自分でも呆れるほどに陳腐だったことを。
「スイミー」や「かっぱ」や「いるか」は、今でもソラで言えます。
みたいなことを言ったのだ。
きっと谷川さんが何回、何千回と告白されたことだろうなと思い、陳腐なことしか言えない自分を思い知った。
私にはそういうところがある。凡人なのに、ちょっと特別なことが言えるとでもどこか勘違いしているところが。
今なら思い直すことができる。それは陳腐なのではなく、ただの「本当」だ。
何人、何万人が同じだとしても、私は実際、「スイミー」の冒頭を今でも諳んじれるし、
「ことばあそびうた」の中の「かっぱ」や「いるか」をリズム良く、気持ちよく、諳んじれる。
「かって きって くった」とか、
「いつなら いるか よるなら いるか また きて みるか」とか、
口に出せばすぐに楽しくなれる。
調べてみたら、この「ことばあそびうた」(福音館書店)は、私が生まれた翌年に発行された作品だったことがわかった。
なんだか少しうれしくなった。
60分の番組が終わった。
のんさんが読む、鉄腕アトムの歌詞から始まって、さまざまな詩が読み上げられた。
「かっぱ」や「いるか」は、読まれなかった。
なんだか少しうれしくなった。