拝啓、ステージの神様。 PR

必死を見つける『蒲田行進曲』

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ステージには神様がいるらしい。 だったら客席からも呼びかけてみたい。編集&ライターの栗原晶子が、観劇の入口と感激の出口をレビューします。
※レビュー内の役者名、敬称略
※ネタバレ少し含みます

紀伊國屋ホールで舞台を観ると、足早に帰ることが多い。行きは書店の中をぐるぐるフラフラ通って向かうのに、帰りは階段をガスガス降りて駅に向かう。
それは一人で観劇することが多いからというのもあるが、何か考え込んだり、評価したりしたくない思いに包まれる。ニュートラルにいたいのに、そうさせてくれないような何かが劇場そのものにあるのかもしれない。

たやのりょう一座第13回公演『蒲田行進曲』を観た。そしてやはり終演後、ガスガスと階段を降り、ズンズン歩いて地下鉄に乗った。

平成がエモいと言われる現在、『蒲田行進曲』の登場人物たちと私たちとの共通点を見つけるのは難しい。
思いきって平安時代までさかのぼってしまえば、案外不変的なものを見つけられたりするのが今、なのだから。

では、この舞台がまるで昔の武勇伝を見せられるような気分にさせられるかといえば、そんなことはなかった。
なぜだろう。恐らくあの限られた空間に必死が渦巻いていたからだと思う。

ヤスを演じる小谷けいさんの必死は、舞台とジャストサイズだった。カーテンコールの時の笑顔がそのジャストサイズ感を体現しているように見えた。

小夏を演じる日比美思さんは、映像での折れてしまいそうな繊細な演技のイメージがあったから、そこからはみ出すことへの必死が見えた。感情だけに溺れない小夏のしたたかさを、図太さとは違う見せ方にするために……。そんな思いを持っていたのかもしれない。そんなふうに見えた。

沖田総司を演じる渡辺梨世さんも、監督を演じる小澤雄太さんも、橘を演じる中村繁之さんも、決して多くはないそれぞれの役の見せ場で、いかに芯に当てるかということへの必死が見えた。この場合、必死と書いてプライドと読ませたくなる。

あのサイズの舞台で、ダイナミックに見せるための殺陣は相当難しいことだろう。でも、ふっと集中が途切れそうになる客席をグッと再集中させてくれたのは、殺陣や動きのあるシーンだった。照明と効果音が名キャストになる。

銀ちゃんを演じるのは座長の田谷野亮さん。なんだか憎めない男、愛し愛される、言ってみればズルい男なのだが、その“銀ちゃんイメージあるある”の鎧を脱いでいたように見えた。自身は何度も演じられている役なのだから、皆が思う銀ちゃんに近づけることのほうがもしかしたら楽(ラク)なのかもしれないところを、そうしない必死がここにもあった。

怒涛の台詞の応酬、発火しそうな熱情、それらをぶつけて、なぜかわからないけど観客も熱にうかされるように必死で観る、それを期待している人は、足りないと思うかもしれない。
昔なら無防備に笑ったであろうシーンも、フィクションとはいえ笑えない部分は少なくない作品だ。
でも私は力づくで笑かそうとする感じじゃ無かった2時間半が嫌いじゃなかった。現代的だなと感じた。
これは回によって観客の中にやけにケラケラ笑う人がいたりすると、また一気に雰囲気が変わる可能性があるので、私は今日の雰囲気の中で必死に見せる一座を観ることが出来てよかった。
どの回を見るか、実は観客も必死なのだ(なんてな)。

拝啓、ステージの神様。
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