映画の中にはさまざまな人生や日常がある。さまざまな人生や日常の中には、整理収納の考え方が息づいている。
劇場公開される映画を、時折、整理収納目線を交えて紹介するシネマレビュー。(ネタバレを含みます)
作品を見て何かを語る時、性別に限定してものを言いにくい世の中になった。
例えばこの映画「カラーパープル」だとしたら、
ひと昔前は「これは女性が見るべき映画」みたいな書き方をした人がたくさんいただろう。今だってもちろんいるかもしれないし、それが絶対に悪いわけではない。
言いにくいと書いたが、私はこの作品を見てその不自由さは感じなかった。
むしろこれを女性だけが見ていたらダメだもの。これは心を持つ人すべてに観てほしい作品だなと思ったから。
物語は姉セリー(ファンテイジア・バリーノ)と妹ネティ(ハリー・ベイリー)の仲良し姉妹のシーンから始まる。二人が当たり前に過ごせるはずの毎日は、横暴な父の決断によって呆気なく引き剝がされる。
セリーはそれを自分の運命だと受け入れ、日々を暮らしていく。
離れ離れになった妹と別れ際に約束した手紙は、彼女の手元には届かない。
始まりからここまでのストーリーだけでも、眉間にはシワが寄りっぱなしだ。
これがミュージカル映画でなければ、私の人相はすっかり変わってしまったかもしれない。彼女以外が明るく歌い踊ることで当たり前に過ぎていく日常とセリーが置かれた立場とのギャップを鮮明にする。
やがて成長した義理の息子・ハーポ(コーリー・ホーキンズ)が連れてきた結婚相手ソフィア(ダニエル・ブルックス)がセリーの前に現れた。
彼女の振る舞い、存在はインパクト大。これもまた音楽によってよりパワフルに表現されて痛快なのだ。台詞と動きだけだったら「ソフィアやりすぎ!」とこめかみのあたりに縦線が入る思いだったかもしれない。でも周囲が呆気にとられるほどの彼女をソング&ダンスで表現すれば、セリーの中に澱のように溜まっているものが、ごにょっと波立っていくのを感じられる。
お次はセリーの最低夫、ミスター(コールマン・ドミンゴ)の憧れの人、シュグ(タラジ・P・ヘンソン)の登場。彼女の奔放かつ慈愛に満ちた言動は、セリーのこわばった表情を少しずつ溶かしていく。
この頃になると、観客は「よしよしよし、そうだそうだ!」と、強力な助っ人を得た気持ちになり、少し大胆に音楽と物語を楽しめるようになってくる。
でも、歴史でも知る通り、時代と彼女たちを取り巻く環境は、まだまだ明るくない。
その事実を感じながら、セリーにパワーを贈ることで、自分もパワーを受け取る。
セリーには寄り添う存在がいた。
妹とは物理的な距離があるけれど、心の奥でつながる存在。
義理の息子とソフィアはベタベタするのではなく、互いの生き方を尊重する存在。
シュグは「あなたは素晴らしい」と肯定し、自分を見つめるきっかけをくれる存在。
そして決して心の底から交わることなどなかった夫・ミスターですら……
物語の中で、セリーは寄り添われる存在なだけではない。彼女も他者に寄り添う存在なのだ。それに気づけたとき、自分の周りにあるコトや人の大事さを思った。
エンドロールに映るものが大好きで、「あー、この映画自体が私に寄り添ってくれた」と感じ、誰かに伝えたいと思いながら、一人で映画館を出た。
スマホの電源を入れると、長年の友人から「今、『カラーパープル』観た。…どしん、と来た」とメッセージが届いた。
私が今日、公開初日にこの映画を観ることは伝えていなかったし、彼女が観に行く予定があることも知らなかった。
あまりのタイミングに、それこそ歌い出して誰かに伝えたくなった。
それからひと時して、映画を観たこと、こんなメッセージが来たということを伝えた相手は、ゴスペルをされている人。
だから、お仲間とぜひ観てね! と伝えた。
これは心を持つ人すべて、寄り添い、寄り添われるすべての人に観て欲しい映画。