映画の中にはさまざまな人生や日常がある。さまざまな人生や日常の中には、整理収納の考え方が息づいている。
劇場公開される映画を、時折、整理収納目線を交えて紹介するシネマレビュー。(ネタバレを含みます)
あれは日曜の午後の光景だったろうか。2階の自室にいると、お隣の2階からパチパチ、時々ジャラリガラリと音が聞こえる。
それはお隣のおじさんが、ご友人と碁を打つ音だった。
それは毎週のように見る光景で、2階の廊下に出ると向かい合って座り、碁を打つ二人のシルエットが見えた。
窓を開いていた時もあり、二人の姿そのままが見えたこともあった。
よく飽きずに毎週のように出来るなぁ、そんなに面白いのかな? と思っていたような。
でもパチパチジャラリガラリの音は、子どもゴコロに嫌な音ではなかった。
実家には片面が囲碁盤、片面が将棋盤になる板があり、碁石も駒もあったけれど、私は遊び方がわからないまま大人になった。
映画「碁盤斬り」を観たら、そんなことを思い出した。
草彅剛主演の「碁盤斬り」は、落語の演目「柳田格之進」をもとに加藤正人さんが脚本を書き下ろし、「孤狼の血」や「凪待ち」などを手がける白石和彌さんが監督した作品。
柳田格之進は、娘の絹と江戸の長屋で貧乏暮らし。印鑑彫りをしているが、仕事の口はあまりなく、娘の絹が針仕事で暮らしを支えている。
その針仕事が丁寧だと腕を買ってくれているのが、小泉今日子さん演じる廓の女将のお庚さん。序盤のなんでもない台詞が、清原果耶さん演じるお絹ちゃんの人となりを表していた。
格之進は誠実を絵に描いたような男。碁を打つが、賭け碁はしない。元は彦根藩の武士でああり、理由あって藩を離れた。妻はいない。
碁はわからなくても、物語の背景は決して難しくはないので、時代劇や映画序盤の暗くて、設定を理解するまでの比較的静かなシーンで時間が長く感じるようなことがない。
ケチ兵衛と呼ばれていた両替商の萬屋源兵衛(國村準)が碁仲間とになりった格之進から良い影響を受けて、人が変わっていくのも面白い。
番頭の徳次郎(音尾琢真)、その下の弥吉(中川大志)など、いい意味でなんの違和感もない配役だ。シリーズで観ていたかのような親近感が不思議なほどだった。
物語は、萬屋で五十両が失くなることから動き出す。その時共に碁を打っていた格之進が嫌疑をかけられたのだ。時を同じくして、彦根藩で格之進に罪を着せた男の正体がわかり格之進は復讐に向かうが……。
碁を打つシーンが幾度となく出てくる。碁盤の目に黒白交互に碁石を置いていく手元のアップや打つ音、碁石の美しさに目や耳が惹かれた。
パチンと気持ちにいい音にうっとりしたかと思えば、
斉藤工演じる敵役の柴田兵庫の打ち方は、盤に置いた時に指が少し碁石にひっつく感じで、そのために石が少しグラつくようだった。
何度か手元がアップになり、その様子が見て取れたから、恐らくその打ち方に人となりを表しているのだろう。兵庫は賭け碁で荒稼ぎしている男なのだ。
思えば、あらゆることに人となりは出るものだ。
碁の打ち方、縫い物の仕上げ方、酒の飲み方、片付け方や文章の書き方だってそう。
面白いし、少し恐ろしくもあるような。
タイトルの「碁盤斬り」のシーンは、ぜひ映画でお確かめを。
落語から生まれたこの映画を、隣で涙しながら観ていた夫が、観終えた後に「歌舞伎にも似合いそう」と言っていた。
親子愛、仇討ち、義理人情、廓など要素はいろいろあるので、たしかに……と、しばらく盛り上がった。
「問題は、碁を打つシーンをどう表現するかだ」と真剣な夫に、
「そこは舞踊で表現するのはどうだろう」と勝手なことを妄想する私。
こんな風に思えるのは、映画「碁盤斬り」がエンタテイメント作品であった証だろう。
“武士の誇りを賭けた≪復讐≫を描く、感動のリベンジ・エンタテイメント!”
という用意されたイントロダクションには、正直あまり「いいね」とは思えなかったが、
この映画が間違いなくエンタテイメント作品であったことは、パチンと碁石を盤に置いたときのように、きっちりはっきり言い切れる。
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