アトリエM_こばやしいちこによるオリジナルブックレビュー。たくさん読んだ本の中かにおら、読者すすめの一冊をご紹介します。
六畳間のピアノマン / 安藤 祐介
大友、夏野、村沢が入社したのは、早朝、昼、深夜を問わず、投資用マンションや、ウォーターサーバーなどを営業する、いわゆるブラック企業だった。社員は、GPS付携帯を持たされ(しかもその携帯は社員自腹で購入!)、管理職の人間たちに常に監視されている。営業中、ちょっと公園で休憩しようものならすぐに電話がかかって来るという有様だ。朝飯と晩飯は五分、昼飯は三分で済ませろという意味不明の掟。そして、それに従ってしまう社員たち。
あらゆる事務用品、営業中の交通費などは社員の自腹購入。深夜か早朝なら客はほとんど家にいるからそこへ突入して営業しろ、という上司の教えのもと、朝は5時半には営業に出なくてはならない。深夜まで働いているのだから、家に帰るより、会社に泊った方が1分でも長く横になれる。ご丁寧に会社には簡易シャワーがあり、近くにはコインランドリーがある。長時間の仕事で身も心も疲れ切った営業マンたちは、考えるより、会社の床にゴロリと横になるのが常だった。
ひと営業かけた後、会社に戻っての8時半からの朝礼の時間は、上司の上河内から浴びせられる罵詈雑言に耐える時間だ。クズ、クソ、卑怯者、こんな言葉は何度も浴びせられ、もう麻痺して何とも思わない。誰か1人をやり玉に挙げて徹底的に罵倒する。罵倒の後は、懺悔させる。そして逆に契約が取れたものを大げさなくらい褒めるのだ。そして〆はいつも、企業理念を全員で唱和する。危ない目をして洗脳されていく営業マンたち。
ある夜、大友、夏野、村沢の3人は駅前のチェーン居酒屋に行った。夜と言っても、深夜二時半過ぎだ。それでも、GPS付携帯で、上河内にバレたら……とドキドキしながらのつかの間の休息。入社してから3か月、初めての居酒屋に、3人は疲れすぎていたのもあってハイテンションだった。アサヒスーパードライの生中ジョッキ。冷凍庫にぶち込んであったジョッキに注いだ、冷えすぎただけの生ビールだ。美味い美味い、世界で一番美味い!おりしもその時、店内のBGMが3人の思い出の曲に変わった。さっき、あまり心も込めずビールを注いだ店員が不思議そうに見つめる中、あまりの偶然に大はしゃぎして、束の間人間に戻った3人は、たまにはこうして飲みたいなあ、と言い合いながらまた会社に戻ったのだった。
そんな日々の中、最初に洗脳が解け始めたのは大友だった。あの上河内のことだ、簡単に辞めさせてくれるとは思えない。まずは武装しないと。3人で脱出するのだ。営業中に勇気を振り絞ってICレコーダーを買う。パワハラの証拠を手に入れるためだ。会社の人間に見られているわけないのに、挙動不審になってしまう大友。やっと手に入れた武器をもって毎朝朝礼に出るが、ボタンを押すことがどうしてもできないまま時ばかりが過ぎる。会社から逃げろ!ボタンを押せ!と、頭の中に響く声。毎日のように仲間や自分がいたぶられているのに何もできない毎日。上河内が、夏野のことを、「おい、サンパイ」と呼び出した。サンパイ、産業廃棄物だ。大友はボタンを押した。
私は昔、学校を出た後すぐに働いた会社を1か月で辞めたことがある。すごくその時のことを思い出した。私も営業だった。
その会社は、ブラックとは言えないとは思うのだけど、毎朝大きな声で企業理念10か条を社員全員で唱和する。この働いていた短い期間にも泊まり込みの研修が何回かあった。そして、自分が売っているものの性能がどういうものかまったく分かっていないうちに課せられる飛び込み営業。地域を割り当てられ、行ってこい!と会社を出される。これが一番つらかった。もちろん、どこのなんていう会社に営業をしたか、どんな感じだったか、などの日報は出さないとならない。
今考えると、たぶん、新人育成のシゴキだったのだと思う。
だらしないことに、私はダメだった。
ある朝、急に、頭が痛くて起き上がれず、会社に行けなくなってしまったのだ……
辞めてから、当時の同期と飲む機会があった。
「お前が辞めてから、立て続けに何人か辞めたよ……。俺もそのクチだ」
と言っていたっけ。
同期は8人くらいいて、私がいた1か月の間に何回か皆で夕飯を食べたりした。あの時期、なんだか団結したけれど、それっきりだ。すごく長く感じた1か月だった。
頑張れる人は頑張ればいい。でも、命を削ったりする必要はない。
「だらしないことに、私はダメだった」って書いたけれど、この会社を辞めたことを後悔したことは一度もない。