拝啓、ステージの神様。 PR

ミュージカル『この世界の片隅に』のかすかなざらり

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ステージには神様がいるらしい。 だったら客席からも呼びかけてみたい。編集&ライターの栗原晶子が、観劇の入口と感激の出口をレビューします。
※レビュー内の役者名、敬称略
※ネタバレ含みます

ミュージカル『この世界の片隅に』を日生劇場で観た。日本初演、いや、世界初演となる初日公演だった。

ここにプログラムがある。♪の柄の着物を着たすずさんが座席に座っている可愛らしい絵だ。藍色の文字でタイトルが書かれている。
触れるとかすかにざらりとした。ニスが塗られたいわゆる厚盛の加工ではないから、
触れてみないとこれに気づかないかもしれない。
あぁ、ここからして『この世界の片隅に』だなぁと、しばらくこのかすかなざらりに触れ続けた。

作品は2007年から2009年に連載された、こうの史代さんによる漫画だ。
アニメーション映画となり、ドラマ化もされ、話題となった。特に映画化された際は、物語に生きる市井の人々の日常にとことんこだわったことがフィーチャーされていたことは、記憶に新しい。
記憶に新しいと書いたが、片渕須直監督による映画の公開は2016年だそうで、私の記憶とは……。でもそれほど印象に残っているということなのだと思う。

その作品がミュージカル化されると聞いた時、嬉しい気持ちがした。ミュージカル化は、原作がある作品だととかくネガティブな意見が表に出がちだが、そういうものと戦わない作品になったらいいなと願ったのだ。
どの立場、どこからの目線でそんなことを言うのだ!だけれど、でもそう思った。
これまで触れてきたこの作品『この世界の片隅に』がいつも教えてくれることが、この感情だったように思う。

で、ミュージカル。
主人公の浦野すずを昆夏美さんが演じた。(Wキャストは大原櫻子さん)。
すずさんは結婚して北條すずになる。浦野すずの頃から始まると思っていたので、北條すずから始まったことに一瞬とまどった。
「え、後日談? その後の世界の片隅じゃないよね?」と。
でも、もちろん、物語はすずの子ども時代も、結婚に至る場面もちゃんと描かれる。
ネタばれになってはしまうが、むしろそこは安心してくださいねと伝えたくなったからなので悪しからず。

子ども時代にすずが体験した人さらいに遭うシーンは、舞台ならではの演出でとても素敵。
もうここを観ただけで、舞台である意味が伝わった。
キャストが舞台の隅々まで散らばって、歌うシーンは、あそこにも誰かがいる、ここにも私がいる、そう感じられる演出でとても納得。
もうここを観ただけで、ミュージカルである意味が届いた。

ぽぉーっとした、と表現されるのんびりのすずさんと、海宝直人さん演じる北條周作さん(Wキャストでは村井良大さん)とのシーンや、
小野塚勇人さん演じる同級生の水原哲(Wキャストでは小林唯さん)とのシーンは、
キュンに照準を当てない感じも嬉しい演出だった。だって、ここわかりやすくキュンっとさせちゃいそうじゃないですか。もちろん、観る人によって感想は異なります。

平野綾さん演じる白木リン(Wキャストでは桜井玲香さん)とすずさんのシーンは、二人の距離感が計算し尽くされていた感じがして良かった。
人として好きだったり気になったりするけれど近づけない人とか、近づいちゃいけない人って、現実においてもいるよなぁ、と思うことがよくあって、
でもそれは少し寂しくもあることで。
だから二人の距離感に注目していくと、心が報われるような気がした。

音月桂さん演じる黒村径子は、すずの義理の姉だ。彼女が人生を宣言する歌が素晴らしかった。もっともっと感情的に演じてしまいそうなところを決してそうはせず、でもその歌で前に進む径子は、この作品のメッセージの一つでもあるのだと勝手に受け取った。

と、ここまで書いてきて、自分が何に感銘を受けたかというと、どこにも力技で観客を黙らせようとしないトーンだったのだなと思う。
ミュージカルにお誘いしようとすると、苦手と答える人は大抵、「違和感」を口にする。
それを「いやいやそんなことはないよ」とうまく説明できない自分がいて、そういう印象を持っている人を無理に劇場に誘うことをしていない。実はちょっとした無力感がある。
わかる人にはわかる……と言ってしまうのは、結構暴力的だなと思ってしまうから、なんだかはがゆいのだ。

ミュージカル『この世界の片隅に』は、ミュージカルファンではない人にも観て欲しいといつもより声高に言えそうだ。実はそう言えるのは、力のあるミュージカル俳優がずらりと揃って丁寧に作り上げられた作品であるからに違いない。
そして、この作品の音楽を手がけているのが、アンジェラ・アキさんであることもまた、そう言える理由だ。

テーマ曲の♪この世界の片隅に は、開幕前にTHE FARST TAKEで公開された。
こんなことはなかなかない。初めてなのかな?
そして、ミュージカルを観終わった後は、この曲が頭をぐるぐると回っている。
いいミュージカルの証拠だよね。

力技で観客を黙らせようとしないトーン、トゥーマッチではないことをたくさん書いてきたけれど、一つだけ。
台詞もとても控えめだった。私はありがたいことに前方のとてもいいお席で観ることが出来たのだが、それでも台詞が聞こえてこないことがあった。
ほかの席の方はどうだったろう。
登場人物たちの日常の会話に耳を傾けるように観て欲しいという演出なのだろうか?
いや、それはこの劇場、この時間にはちょっと負担が大きい。
音楽に乗った台詞や心情が響くからこそ、歌のない部分で集中が途切れることがないように出来たら、もっともっといいなと思った。

さあ、この後ゆっくりプログラムを開くことにしよう。ほかの方の感想も読んでみようかな。この世界のあちこちに、いろいろな観方をする人がいるということを受け入れたいから。
その前に、もう一度だけ表紙のかすかなざらりに触れてみよう。

拝啓、ステージの神様。
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