旅の空から PR

命を頂くということ。

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地球が好きな写真家 伊藤華織が、旅の空で素敵な人生の出逢いを綴ります。

2022年の12月、3年ぶりの海外の旅先は3度目となるネパール山岳地帯。(ネパールは4度目)
なにゆえネパールの山岳地帯なのか? それは、浜松在住の友人がおり、その友人の旦那様がネパール人で、ネパールの山岳地帯に故郷を持つのだ。

その友人は聡明で行動力抜群。何万馬力もの集中力で物事をやっつけていく。
彼女は、150年続く家業の仕事をする傍ら、ネパールで日本語学校を運営したり、ネパール人の日本への留学手配を行ったり、ネパールでのツーリストオフィスを持っていた。

2015年のネパールの大地震の時、旦那様の故郷の山岳地帯も、甚大な被害がでた。その際も迅速に、日本政府とやりとりをして支援金や支援物資の調達。断水してしまった水の道をつけるための工事等をするための資金や人材の教育などもしていた。

その友人の浜松の自宅は、アットホームで居心地が良く、仕事で、愛知方面に行くこともあり、時折仕事帰りに泊まりで訪れたりしていた。

今から5年くらい前に友人宅を訪れた時に。

彼女の旦那様は、〝ネパールの故郷のライフラインは色々な支援がされてきたが未だ、桃源郷のような山岳地帯では、いつ崩れるか分からない校舎に子供たちが通い、校舎に入れず外で土の上に座って授業を受ける。雨季はひたすら雨が降り、冬の寒気はすこぶる寒い。子供たちが安心して校舎で勉強できる環境になる様に、学校校舎の建設なども、色々な支援を働きかけ、3つの教室を作った。それでもまだ、追いついていず、広く活動を知ってもらうためどんな状況かを、写真や映像で伝えたいというところだ″と話してくれた。

〝ではでは、私が行って撮りましょう!!!〜″

というのが、第一回目の山岳地帯訪問だった。
その話はまたおいおい。おいおい。。。
今回は体験ホヤホヤならではの事を書きたいのである。
命を頂く。までは道のりが長い話である。。。


山岳地帯は、時間の概念も吹っ飛ぶくらい、穏やかな、時間というものが無くなった感覚になる。

朝は静まり返り、山々が高いので日の出まえからゆっくりと白み始め標高の高い山に陽があたる。それからゆっくり太陽が山間いから顔をだす。その間ゆっくり呼吸をし山肌にあたる光の変化をぼんやりと見つめ、陽の光が上がる事で地球が動いている事を感じる。

鶏が鳴き、遠くの犬が吠える声が聞こえ、ただそこにいるという感覚。

急くこともなく。ただ在るという事。陽の暖かさを感じ風のそよぎが頬に触れる事を感じる。山岳地帯ならではの段々畑で、水牛が畑を耕し、ニワトリはヒヨコたちと、自由に土の中にいる虫をついばみ山羊たちが草を食む。人々は土の土手を作った様な釜戸で火を焼べ料理を作る。夜が深け空には満点の星空。ゆっくり丁寧に生きている。

今回は、友人の知人の方たち、私の知人も誘い合っての旅。
私は、旦那様の実家も3度目ということもあるのか、そんな環境をどっぷり味わいつくす豊かな感覚だった。

旅を共にする友人の知人たちも色々な背景のある方たちで、それぞれのゆっくりとした時間を過ごし、時折、話したり、景色を眺めたり散策をしたり自由に過ごした。

ネパールの料理は、ネパールカレーが主に出る。日ごろはダルバートという豆のカレーやローカルチキンが主であるが、客人としてのおもてなしでヤギの肉でもてなしてくれる事になっていた。

お肉は、当然パックで売っているわけではなく、生きている山羊をさばき、食す事となる。

旦那様の実家に着いた翌朝より、男たちが4〜5人で作業をする。それを、見ることもできる。命を頂くこと、それを目の当たりにして見とどける。

今回、共に訪れた方達もそれを見とどけた。

しかし、私は、見たいとは思わなかった。肉を食べることは命を頂くことだと知っている。そのために生き物を殺すということも分かっている。敢えて、そこを目撃しなくても大切に感謝して食べる、と。。。

一通り、男たちにより丁寧に解体が終わり、
それを見届けていた今回、旅を共にしている人たちが、戻ってきた。
その中の獣医師の聡明な若き女性が私の元にきて、「華織さんは見なかったんですね。」と、言った。
とっさに「看護師も長くやってたし命の大切さを知ってるから私は見なくても良いと思った」とお伝えした。

その後、家の前の石畳にそれぞれ思い思いに座りチャイやロッティーという、ドーナツのような揚げ菓子を庭に座りながら、話をしたり風景をみていた。

その時、その聡明女史が、
「さっき、華織さん、命の大切さを知っているから見ないといっていましたが、見た人達は、命の大切さを知らないと言うことですか? 私は獣医師として命の大切さを知っていて見ました」と。

。。。

……あら?

違う……

そんなつもりで言ったんじゃない。

ぬぬ……

どういうこっちゃ? 何が起きた?

と暫しどうしたものか。

。。。

そんなつもりで言ったんじゃなくて。私は、自分は見なくて良いと思ったこと。観る方、観る方によって観たい見とどけようという思いはそれぞれにある。

「決して、人がでは無く自分は見なくていいと思ったという事。でもその中で、私の中で命を絶つ瞬間を見届ける勇気もなく、怖いという気持ちがある」と伝えた。

「あっ、華織さんは怖いから見れないという事なんですね。」

、、、

むむむ、

怖いから見れないだけじゃない。

生き物の肉を頂くその事はずっと考えてたし、命のことも。精肉にする方達は神聖なこと。でもその作業をしない私が、絶命する瞬間を見る(見物)ということはしたくなかった。

としどろもどろに説明をする。

過去世というものがあるならば、たくさんの人の目がある中で私は殺された経験でもあるのだろうか……だめなのである……

そして、彼女は、

朝陽が登り寒い空気の中山羊を捌く。大地に血を落とさぬ様に、血をたらいに入れ、お腹を裂き内蔵の温度で寒い空気の中湯気が上がる。
その男たちと山羊から立ち上がる湯気が朝陽に照らされ逆光的に輝く様が美しかった。
写真家である華織さんが何故その美しいさまを写真に撮らないのかと思って質問したのだという。

そっか……

確かに。言われるとその光景が神々しく神聖な美しさを持つ事が容易に想像できた。
そして、それは私にとっても撮りたい光景の様に感じたが、やはり怖いのである。そして、覚悟がなく、命に、その命を落とす者をしっかり見つめて誠実に丁寧に愛を持って撮りきり、その肉を食べる勇気がないのだ。

ちょー真面目なヘタレで自分に言い訳を言っている自分があるのだとぐるぐる頭の中を駆け巡る。

そのうち、それを語っている彼女が無言になり無言で目にたくさんの涙を溜め必死に拭き取っている。

まだ、話は終わっていなさそうで。言葉を出したそうだが、言葉を出せない感じになった。

むむむ……

これは、待とう。待つのである。じっと、目を逸らさず。待つ。待つ。

待つ。向き合う。

逃げずにずっと、無言で、何か口を挟んではいけないと思った。

目を逸らさずに。余分な動きもせず静かに集中する。

それが、彼女に対しても、命を頂く事に対しても私の誠実だと思った。

しばらくして、彼女は、

自分は獣医師として、家畜(経済)動物の解剖をしたり、経済動物として価値がなくなったり、病気になってしまった動物に対して安楽死も行ってきた。大抵、身体の構造学的な観点から興味深く解体を見たり、今回、他の解体を見届けた人達に説明していたり、写真を撮っていた。

でも、切られた山羊の顔の写真は撮れなかった。と。

自分の中に可愛そうという気持ちがあったんだということに、それを押し隠していたという事に気づいたと。涙を拭いながら、言葉を絞り出した。

人は、一つの行動の中に沢山の相対する考えが同時に内在し、ひしめきながら生きてるんだということ。

彼女の初めの問いに、答えた私。彼女が、たとえ私の答えに違和感を持っても、それを私に問わなければ、それで終わったかもしれない。

しかし、時の流れを感じさせない彼の地は、私たちを本気で命と向き合い、それぞれの思いを出し合えたからこそ、自分の中の自分の色々な思いに触れる事ができる機会を作ってくれたのである。

 

今、この文章を書き終え、4度目のネパール山岳地帯訪問では、レンズを通して命を頂くことと真剣に向き合ってみたいと思っている。

彼の地(ネパールの山岳地帯)は、ぜひ一度訪れることを薦めたい場所である。

この会話の後、彼女がネパール渡航の2ヶ月前に綴ったnoteを私に教えてくれたので一読頂きたい。
私の中のちいさなひとの話
文・写真・伊藤華織(Kaori Ito)
集中医療・救急医療の現場で看護師として25年間従事する。
生と死の迫る医療の現場で自身が感じた、生きることの 稀有さ、そこに宿る喜び、失うものへの愛情と感謝を被写体を通して伝えたいと、写真家・映像作家に転身。
2011年より病院の緩和ケア病棟でのポートレート撮影活動をスタート。2020年、コロナ禍による病院の面会制限強化に伴い、家族すら会えない個室で過ごされる患者の方に向けた映像配信「ハートフルビジョンプロジェクト」を企画。死への不安や、孤独などによる不眠が少しでも和らぐように、朗読映像を制作し配信活動を行う。

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