拝啓、ステージの神様。 PR

EPOCH MANの『我ら宇宙の塵』は人間にやさしい

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

ステージには神様がいるらしい。 だったら客席からも呼びかけてみたい。編集&ライターの栗原晶子が、観劇の入口と感激の出口をレビューします。
※レビュー内の役者名、敬称略
※ネタバレ含みます

「シェフのきまぐれサラダ」を躊躇なくオーダーできる私は、
人の薦めで舞台を観に行くことがある。もちろん信頼のおける人からの薦めに限るが。

お薦めいただいてEPOCH MANの『我ら宇宙の塵』をシアタートップスで観た。
見切れ席だったが、呼吸も光る汗も繊細な動きもこの目に耳に抑えることができた。

隣の席の若い女性が(なぜこういう時、若いって形容してしまうのだろう)、終盤、小刻みにうなずいていた。台詞を聴きながら。
それは主に生や死、魂とか宇宙とか記憶に関する台詞だったように思う。
ふと思ってしまった。
お隣の彼女は、もしかしたら大切な方を亡くした経験があるのかもしれないなぁと。
方と言いつつ、それは人とは限らないけれど。

そんな集中力なく演劇を観ているのかと問われれば、そうなのだが、気になったし勝手な妄想は止められなかった。
でもその小刻みなうなずきが、彼女自身にとっての肯定に感じて、まったくの他人ながらなぜか嬉しかった。
そんな気持ちにさせてくれる作品だったのだ。

開演前、舞台には横たわる星太郎(しょうたろう)がいる。あるではなく、いる。
彼は宇佐美陽子(池谷のぶえ)の息子だ。
星太郎はずーっと横たわっている。静かに。彼はパペットなのだが、星太郎だ。
ちなみにこの星太郎は、本作の脚本・演出・美術を担当している小沢道成さんが努める。

観ていない方には混乱でしかないだろうが、つまりこの作品には、人間の役者とパペットの役者が登場し、パペットを役者が操る。
あれ、余計に混乱させたろうか。

星太郎は友達ともしゃべらず、ひたすらに星を見上げる子どもだ。
理由は母が一番よくわかっている。亡くなった自分の夫について
「お父さんは星になったのよ」と息子に伝えていたからだ。
そう言ったことへの是非ではない。父親を亡くした幼いわが子に「お父さんは?」と聞かれ、そう答えるしかなかったのだ。
以来、星太郎は周囲と交わらない子になっていた。

ある日、星太郎の行方がわからなくなった。動揺しながら息子探しをする陽子と偶然行動を共にするようになった鷲見(渡邉りょう)と早乙女(異儀田夏葉)。
3人がたどり着いたのは平家織江(ぎたろー)が営むプラネタリウムだった。
3人もそれぞれの喪失を抱えていた。

とにかく役者がいい。皆、声がいい。
シリアスに深く深く潜っていくことも出来そうなテーマでもあるが、
彼らのクセの強さで、なにかシリアスなことがちょっとひっくり帰って滑稽になったりもして、泣くのかと思いきや、笑ってしまうのだ。
なんか人生だなと思う。
観客も含めた人間に対してやさしいなと思った。

もう一つ、この作品の大きな特徴がLEDを使った演出。
楽しかった。美しかった。包まれた。
音と光と動きは、いわゆる没入感も感じさせるけれど、やはり舞台と客席という物理的な距離があることで、ちゃんと俯瞰でも見られるのが私は好きだ。
前から2列目だったので、割りと包まれる感が強く、やや光に酔う感じもあったから、何度かメガネをはずしたりもした。
そうやって冷静に距離を取れる自分を好きだなと思った。
人間に対してやさしいなと思えるこの作品のおかげだと思う。

パペットの星太郎を4人で操るシーンがある。結構クライマックスのシーン。
それは魂が集結したような場面だった。
文楽を観た時の美しさや人間味にも似ていた。

こんなにもいろいろな要素が詰め込まれているのにトゥーマッチ感がないっていうのは
いったいどういうことだろう。
その答えは、パンフレットを初めから最後まで読むと合点がいった。

そして一晩たって、今もやけにくっきりと思うのは、
小沢道成さんが星太郎とともに舞台上手前方でかなり長い時間佇んでいた時のこと。
具体的には星太郎はじぃーっと立ったまま、その後ろで小沢さんがしゃがんでいた。
かなり長い間。
足首と股関節のやわらかさのなせる業だ。
パペットの星太郎と小沢さんは一体だった。

そうしてまた思う。お隣で台詞を聞きながら小刻みにうなずいていた彼女は、
どんな朝を迎えたかなと……。

パンフレットは1500円。脚本・演出・美術の小沢さんの頭の中というか、心の中をのぞかせてもらえるような一冊。山岸和人さんの写真もめちゃくちゃいい!!
拝啓、ステージの神様。
↑過去記事はコチラから