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ただ、だだをこねたかっただ

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日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。

NHK連続テレビ小説、朝ドラの「ブギウギ」を観ながら、福来スズ子の娘、愛子の泣き方が上手だなぁと思ってつい口にしてしまう。
「こういう泣き方する子、いるよなぁ~。今は見かけない感じがするけど」

よく考えれば見かけるも見かけないも、私は知るはずがない。
子どもを育ててはいないし、弟や妹はいない。
せいぜい幼子に対峙したとすれば姪っ子くらいなのだが。

それでもこの、今は見かけない感じ、がするのは何故なのだろう?
おかっぱ頭のせいもあるのだろうか?
とはいえ、駄々をこねる子どもがこの世からいなくなったわけではないだろうし、
泣きすぎてなんで泣いてるんだかわからなくなる子は、うん、みかける気もする。

ここまで考えて、ある仮説にたどり着いた。
私はこの「駄々をこねる」ことに、うっすらと憧れがあるのではないだろうかと。
した記憶がないのだ、駄々をこねた経験がない、たぶん。
年老いた母に訊ねても、「どうだったかしら、なかったんじゃないかしら」となる。

このことについては、以前、新小岩駅のモンチッチ像を見た時に書いていた

ひねくれなかったぞ日常の中から、エンタメを整理収納目線、暮らしをエンタメ目線でつづります。栗原のエッセイ、つまりクリッセイ。 子どもの頃、ぬいぐるみをたくさん持っている同級生がいた。モンチッチやシルバニアファミリーへの憧れを抱いていた頃の記憶のお話。...

おもちゃやは見るだけだったこのエピソードは何度となく口にしている。
ということは、やはり駄々をこねてみたかったのだろう。

ドラマの中の愛子ちゃんは、むりなわがままを言っているわけではないから、
駄々をこねるというよりは、甘えたを表現しているのだろうな、きっと。

駄々のこね方に時代による違いはあるのだろうか?
有識者の方、ぜひ教えてください。

※写真は優等生っぽくならんだえびトースト